きょう、井筒監督作品のパッチギを観ました。この映画は1968年の京都を舞台にした、日本の男子高校生と朝鮮学校の女子高校生のラブストーリーです。時代設定的にベトナム戦争や学生運動と重なっていて、ラブストーリーというだけのものではありません。主人公が戦争や社会の矛盾や、日本人の自分と朝鮮人の恋人の障害の多い恋愛に悩む姿が描かれています。
この映画と直接関係はありませんが、わたしは生命の神秘とか生物の進化論の話が好きで、NHKなどでスペシャルやドキュメントをやっているとついつい観てしまいます。そういう番組を観て感じることは、どうやら自然というものはこの世界に生まれてきた生き物すべてが生き残るようにはなっていなくて、生命力の強い生き物が残り、生命力の弱いものが滅びていくということを繰り返して今日まできたということのようです。人間に限って考えても昔はいろいろなタイプの人類がいたそうです。心が穏やかで戦いや争いを好まず、木の芽などの植物を食べて生きていた人類とか。ヤギとかウサギみたいでなんとなく微笑ましい感じです。でも、この人類の子孫は現在はいません。今生きている人類の直系の先祖は、他の動物と戦って、倒し、肉食を始めた人類です。肉食をすることで良質のタンパク質が得られ、脳の肥大化が進み、他のタイプの人類と差がつき、他のタイプの人類が滅んでいく中で唯一生き残れたということです。頭脳が進化するにつれ、他の動物を倒すことは、容易になり頭を使わずにすむようになりました。人間が頭を使わないと倒せないのは人間だけということでしょうか?人間同士争いはじめた歴史は食べ物の取り合いからはじまって、土地を奪い合い、領土を奪い合って続いてきたのでしょう。
話を少し戻しますが、狩りをはじめたのに生き残れなかった人類もいるそうです。喉仏の位置が悪くて子音がうまく発音できず、コミュニケーション能力が発揮できなかった人類です。頭は良かったということらしいので、かわいそうですよね。生き残った人類のほうは、自分よりはるかに大きいマンモスなんかと戦う時に、仲間同士声を掛け合い協力し、あるいは事前に細かく打ち合わせしたりしてうまくやったんでしょうね。
私が感じているのは人間は仲間と協力し、敵と戦うことで進化してきたということです。争うこと、協力することの矛盾する二つの要素の両方が進化に不可欠だったとおもいます。そしていま仲間と敵を分けるものが、国であり、宗教であり、民族なんでしょう。
この映画に出てくる朝鮮人はそのことを凝縮したような存在に私にはみえました。しかし今を生きてる人間が人類の最終系ではありません。これからどんどん進化していくでしょう。これは、私の推測ですが、人間が国、宗教、民族などで敵、味方を分ける意識は薄れなくなっていくでしょう。ただそれからのことは随分先のことだとおもうので人類の通過点の自分には予想することはできないのかもしれません。
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